「ROMA」と「裸の島」

ブログって、何を書く場所なんだ?


なんてことを考えているあいだに、忘れそうなことを書き留めておいたらいいのだろう、たぶん。

去年Netflix映画として話題になった「ROMA」を観て感じた、数ヶ月前に見た新藤兼人監督の「裸の島」と重なるイメージ。そのことを記録しておこうと思う。
アルフォンソ・キュアロン監督が、「裸の島」を見ているのか、影響があったのかどうか…検索してみた限りでは分からなかったが、共通するイメージを感じている人はもちろんいた。

黒く輝く水面と女性の労働のイメージ、走り回る子どもたちにだけ見せる笑顔、日常から離れ旅をする場面の解放感、子を失った悲しみが溢れる瞬間…
時代も国も遠く離れた映画だけど、強いつながりがあるように感じられた。

「裸の島」は、「午前十時の映画祭」という旧作をデジタル・リマスターで上映する企画で、たまたまROMAを観る数ヶ月前の週末の午前に時間が空いて観ることができた。
新藤兼人監督の作品を映画館で観たのは初めてで、モノクロの映像の美しさ、俯瞰から島に迫る映像の迫力、水の表現の美しさ、乙羽信子さんの切なく溢れるような輝き、、すべてに衝撃をうけた。そして、それが1960年公開の映画ということに、何よりも驚きと、技術の進歩と表現の深さについて考えさせられる。
セリフはほとんどない。淡々としてみえる映像のすべてから伝わる、日々の労働の苦しさ美しさ、夫婦のつながり、葛藤と悲しみ。女性の生の逞しい美しさ。
削ぎ落とされた静かな表現にこそ、映画の豊かさがあるのだと知った。

数カ月後、「ROMA」を観て、こうやって今につながっていくのか!という驚きと喜びがあり。過去の名作を観ることが、新しいものをより深く楽しむための条件なのだとあらためて。セリフが詰め込まれ、背景には音楽が次から次へと鳴り、CGでどこまでも鮮やかな色と光に溢れる…エンターテイメントという名目で過剰な要素で満たされた現代の映画を見慣れていると、「ROMA」のような映画こそ今求めていたものだ、という感じがする。
静けさと切実さ。

かつて吉本隆明の講演を聞きに行ったときに聞いた、言葉は枝葉で、大切なのは幹であり沈黙だ、って話。

映画という豊かな枝葉から、幹を想像する力について思う。

大切なことはいつも語られなくて、それでも伝わって沈黙から沈黙へ、少しの涙になって見えたりする。

この2作の女性たちは、ほとんど言葉をもたなくて、女性というのはそういうふうにして生きてきたんだ、と思う。

そのことについて考えるために何度も見たい。

 


古い映画を、もっと映画館でみたい、みなきゃ、という気持ちをちょっと硬派めに書いてみるテストでした…

「午前十時の映画祭」なんてシニア向けの時間にせずに、午後八時とか若い世代が仕事終わりで見れるくらいの時間にやってほしい。
懐古のためじゃなく未来のために。